京都、お散歩日記

1人の時も、誰かと行く時も、京都のお散歩は楽しい

大学時代の節分と懸想文

今週のお題「わたしの節分」。私の大学時代の節分のことなど、すっかり記憶から抜けていた。しかし、ちょうどそれを思い出す機会があった。それは昨年の金戒光明寺に行く途中、久しぶりに須賀神社の前を通りかかったから。「あっ!」と遥か昔の節分の日のことがよぎった。京都では様々な神社やお寺で節分祭があるものの、私が行ったのは大学時代の一度だけ。それがこの須賀神社の節分祭だった。

 

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須賀神社の節分祭は懸想文売りからお守りを買える。懸想文は恋文にあたるもので、良縁にご利益があるよう。昔、貴族が顔を隠し、懸想文の代書をして売っていたのが起源らしい。私は本でそれを知り、節分の日に須賀神社に向かった。烏帽子をかぶり、顔が布でほぼ隠れた懸想文売りは怪しさ満載だったけれど、恐る恐る近づいてみると「これを人知れずタンスに入れておくと、着物が増え、容姿もきれいになれますよ」と話をしてくれた。

 

この時期にしか手に入らないもの。私は懸想文をまるで大きな物を得たように、大切に持ち帰り、すぐに自分のタンスに入れた。その後、確かに洋服はタンスに入らないくらい増えたと思う。しかし、容姿の変化は神さまでも難しかったみたい。少し足をのばせば、吉田神社の節分祭にも行けた。でも、あの頃の私は節分の豆まきより、鬼より、このお札だったんだなと思う。


季節の変わりめ、邪気を払うことなど全く考えず、良縁や容姿の良さを求める、その時の自分にとって現実的な幸せを求めていたことに若かったんだなと思う。今の自分がこの時期に京都に行くならば、節分の儀式を見てみたり、せっかくなので福豆をいただきに行きたいと思う。